人が能力を発揮できる理由

佐野

佐野 2013年1月29日

最近は、学校教師の体罰や、いじめ問題が多発していますね。
あまりにもこの件が多すぎるので、
今回はあえてクラウドや開発関係から離れて、
これに関する話題にも触れてみたいと思います。

体罰は、言うことを聞かない生徒に言うことを聞かせるためや、
気合いを入れるためなどとも言われているようですが、
私が思うには、体罰は抑圧であり、
抑圧からは最低限の能力しか発揮できないと思います。

物理的な体罰に限らず、怒るという行為も同様です。
会社においては体罰は犯罪行為に等しいので行われないとは思いますが、
言葉として精神的なダメージを与えるものに形を変えて、行われる可能性はあります。

怒るという行為は、問題のある行動を抑制するためのものです。
それが正しい形であれば、「叱る」という言葉になるでしょう。
しかし、頻繁に怒り、対象の人を思い通りの行動を取るように
誘導させる形を取ろうとしても、形だけはうまくいくかもしれませんが、
その行動の本質が理解できているかどうかは、疑問に感じるところです。

怒られる理由が明確でなければ、何で怒られるのかがわからないため、
今後行う行動に対しても、正しいかどうかの不信感も生まれます。
また、怒る人は性格上単に怒りっぽい人と認識されるだけで、
怒られるのは仕方がない、この人が怒るのは当たり前のことだとあきらめ、
結果、その状況のストレスを緩和するために、
何も感じないように、聞き流す事にしようと考える事もあるでしょう。
そして、その状態を「我慢強い」と認識する事もまた問題です。
そうなると、その人は作業の本質を理解せずとも、
その場しのぎの作業にも疑問を持たなくなるでしょう。

人が能力を発揮できる状況というのは、
恐怖や威圧により動かされているときではなく、
自分の能力を活かして、よい方向へ動かせると思える瞬間だと思うのです。
恐怖や威圧で人を動かしたとしても、そこに意思はなく、
単純に怒られたくないためだけに行動するようになり、
それ以上は望めないことでしょう。

そして、自分の意思で行う大切さも、恐怖や威圧で教えられるものではなく、
それで強要したにしても、その時点で「自分の意思」という概念は崩壊しています。

問題行動は強く印象付ける必要はありますが、それを体罰などではなく、
言葉で意味をしっかり伝えられるようにならないものかと、疑問に思います。

しかし注意だけされ続けて、何もできなくなってしまうという事もあるそうです。
正しい事は出来て当たり前なので、褒められるという事はないように思われがちですが、
正解を確認する機会もなく、ただ叱られる機会だけが存在していると、
何が悪い事なのかを理解できず、常に問題を起こしてしまいかねないと消極的になり、
最終的には自分の意思で行動できなくなる人に育ってしまう。
ダメ、ダメというだけで教育する方法を「デメリットシステム」と呼ばれているそうです。

私が今、発案をしたり様々な行動ができるのも、
現状をよい方向へと運びたいという意思があるからです。
そして、それを信頼されているからこそ、その意思は強まります。最近は、学校教師の体罰や、いじめ問題が多発していますね。
あまりにもこの件が多すぎるので、
今回はあえてクラウドや開発関係から離れて、
これに関する話題にも触れてみたいと思います。

体罰は、言うことを聞かない生徒に言うことを聞かせるためや、
気合いを入れるためなどとも言われているようですが、
私が思うには、体罰は抑圧であり、
抑圧からは最低限の能力しか発揮できないと思います。

物理的な体罰に限らず、怒るという行為も同様です。
会社においては体罰は犯罪行為に等しいので行われないとは思いますが、
言葉として精神的なダメージを与えるものに形を変えて、行われる可能性はあります。

怒るという行為は、問題のある行動を抑制するためのものです。
それが正しい形であれば、「叱る」という言葉になるでしょう。
しかし、頻繁に怒り、対象の人を思い通りの行動を取るように
誘導させる形を取ろうとしても、形だけはうまくいくかもしれませんが、
その行動の本質が理解できているかどうかは、疑問に感じるところです。

怒られる理由が明確でなければ、何で怒られるのかがわからないため、
今後行う行動に対しても、正しいかどうかの不信感も生まれます。
また、怒る人は性格上単に怒りっぽい人と認識されるだけで、
怒られるのは仕方がない、この人が怒るのは当たり前のことだとあきらめ、
結果、その状況のストレスを緩和するために、
何も感じないように、聞き流す事にしようと考える事もあるでしょう。
そして、その状態を「我慢強い」と認識する事もまた問題です。
そうなると、その人は作業の本質を理解せずとも、
その場しのぎの作業にも疑問を持たなくなるでしょう。

人が能力を発揮できる状況というのは、
恐怖や威圧により動かされているときではなく、
自分の能力を活かして、よい方向へ動かせると思える瞬間だと思うのです。
恐怖や威圧で人を動かしたとしても、そこに意思はなく、
単純に怒られたくないためだけに行動するようになり、
それ以上は望めないことでしょう。

そして、自分の意思で行う大切さも、恐怖や威圧で教えられるものではなく、
それで強要したにしても、その時点で「自分の意思」という概念は崩壊しています。

問題行動は強く印象付ける必要はありますが、それを体罰などではなく、
言葉で意味をしっかり伝えられるようにならないものかと、疑問に思います。
私からすれば、体罰や罵声は、なんの意味もないと思います。
むしろ得るべき情報以上に、苦痛や疲労のほうが上回る結果となることでしょう。
恐怖心でのとまどいから失敗や遅延が生まれ、また怒られるという悪循環にもつながります。
それよりも、そのような恐怖心に頼る事なく伝える事のほうが重要かと思います。

しかし注意だけされ続けて、何もできなくなってしまうという事もあるそうです。
正しい事は出来て当たり前なので、褒められるという事はないように思われがちですが、
正解を確認する機会もなく、ただ叱られる機会だけが存在していると、
何が悪い事なのかを理解できず、常に問題を起こしてしまいかねないと消極的になり、
最終的には自分の意思で行動できなくなる人に育ってしまう。
ダメ、ダメというだけで教育する方法を「デメリットシステム」と呼ばれているそうです。

私が今、発案をしたり様々な行動ができるのも、
現状をよい方向へと運びたいという意思があるからです。
そして、それを信頼されているからこそ、その意思は強まります。